SANO TSUNETAMI History

佐野常民の歩み

日本赤十字社の父

佐賀と世界を結んだ歴史

修行時代

佐野常民は、25 才になると藩命を受け蘭学修行へと旅立ちます。
京都では広瀬元恭の時習堂、大坂では緒方洪庵の適塾など、当時を代表する蘭学者のもとで最新の西洋医学、科学などを学びました。また、修行時代の同門のつながりは、その後の人生で交流を深めていくこととなります。
佐賀藩精煉方では、時習堂の同門である田中久重・義右衛門父子、石黒寛次らとともに働くほか、伊東玄朴の象先堂塾の同門松木弘庵(寺島宗則・後の第4代外務卿)は、ウィーン万博の際に佐野常民と共に業務を行っています。
佐野常民が明治日本の近代化に尽力し、功績を残してきた背後には、人とのつながりも大いに関係しているのではないでしょうか。

扶氏経験遺訓

緒方洪庵が開いた適塾で使用されたテキスト。内容は実践的な医学に加え、医の倫理についても触れており、佐野常民にも大きな影響を与えた。

人身窮理書

京都の蘭方医広瀬元恭が、自身が開いた時習堂で使用していたテキスト。「人身窮理」とは「生理学」のことである。

精煉方と三重津海軍所

30 から 40才代中ごろの佐野常民は、「精煉方」と「三重津海軍所」、佐賀藩の近代化事業における二つの象徴的な施設に関わりを持っていますが、どのような立ち位置にいたのかについては、詳細は分かっていません。しかし、精煉方では技術者を統括していたこと、三重津海軍所では、蒸気船建造のメンバーに加わっていたことは確認されています。
また、幕府からの依頼を受け、元治元年 (1864) に三重津で、幕府の蒸気軍艦千代田形の蒸気缶組立をおこない、献納した功績から褒賞を受けた時の記録には、「物頭 ( ものがしら )」と表記されています。
少ない資料の中にある佐野常民の痕跡から、大きな部門を統括しているというよりも、上層部の意を受けて、他のものをまとめながら実務交渉にあたる「中間管理職」的な役割ではなかったかと考えられます。

精煉方銘瓶

精煉方の銘が入った瓶で、化学薬品の保存や調合で使用されたものと考えられる。

凌風丸模型(S=1/40)

慶応元年 (1865) 、三重津海軍所で竣工した国産初の実用蒸気船。
主に河川や浅瀬を航行する目的で使用された。

万国博覧会と佐野常民

文久 2 年 (1862) の第 2 回ロンドン万国博覧会を機に、博覧会に触れた江戸幕府は、慶応 3 年 (1867) に開催された第 2 回パリ万国博覧会に正式に参加、文字通り世界への扉を開きました。
その中で佐賀藩派遣団の一員として参加した佐野常民は、佐賀の特産品を PR するほか、海外の情報収集、蒸気軍艦の発注交渉に精を出しました。
維新後、明治政府が参加した、明治 6 年 (1873) のウィーン万国博覧会では、佐野常民は事務副総裁として参加。出展にあたり、お雇い外国人技師ワグネルの指導を受け、西洋人の趣向をリサーチし、巨大かつ日本人の器用さが際立つ作品を選定。
鯱や大提灯、西洋人好みに絵付けされた陶磁器、さらに現地に和風庭園を造園するなど、これまで見たことのない日本的なものは、予想通り世界に大きな衝撃を与えました。

パリ万博佐賀藩派遣団一行

[前列左より]海外経験豊富な小出千之助、佐野常民、佐賀藩御用商人の野中元右衛門[後列左より]従者の藤山文一、商人の深川長右衛門が佐賀藩より派遣された。

ウィーン万博出展の大提灯

明治 6 年 (1873) のウィーン万博に出展された大提灯で、柄には龍が描かれている。

近代国家を目指して

明治時代に入り、政府の一員として新しい国づくりに励みはじめた佐野常民。明治 4 年 (1871) に工部省灯台頭となった佐野常民は、洋式灯台建設の要務につき、イギリス人技師ブラントンとともに灯台整備に尽力、日本の貿易振興を支えました。その後、博覧会御用掛を兼務することとなった佐野常民は、博物館の創設・博覧会の開催を上申。明治 5 年 (1872) には日本初の博覧会が湯島聖堂で開催されました。
翌年開催されたウィーン万博に参加した佐野常民は、展示の指揮を執るかたわら、海外の情報についても知見を広め、帰国後、山林・養蚕・兵制など多岐にわたる分野でまとめられた報告書は、日本が目指す近代化の基礎づくりに役立てられました。また、佐野常民の万博経験が生かされて開催された内国勧業博覧会は、博覧会ブームの先駆けとなると同時に、産業奨励の場としても活用され、殖産興業政策に重きを置いていた政府の施策を後押しすることにつながりました。

澳国博覧会報告書

佐野常民がウィーン万博で深めた見識は、帰国後、16部門におよぶ報告書としてまとめられた。産業分野では、日本での事業展開や導入方法について述べている。

東京名所之内 明治十年上野公園地内国勧業博覧会開場之図

明治 10 年 (1877)、第 1 回目の内国勧業博覧会が東京・上野公園で開催された。

赤十字とともに

明治 10 年 (1877)、西南戦争の最中、救護団体の必要を訴えた佐野常民と大給恒の請願からはじまった博愛社。その後、政府が赤十字条約に加入し、博愛社は日本赤十字社と改名、アジア諸国で最初の国際赤十字加盟を果たしました。
初代社長に就任した佐野常民は全国を回り、各地で講演を重ね、人々に赤十字の意義と必要性を熱く訴えます。看護婦養成や病院船の建造にも精力的に取り組み、事業を拡大させていきました。
わずかな社員からスタートした日本赤十字社も、今や全国に支部を置き、地域と連携を取りながら、国内外で災害救護や医療支援など幅広く事業を展開するまでに成長。
人の「性善 ( 至性 )」を信じ、情熱をかけて奔走した佐野常民の想いは、今も多くの人に受け継がれています。

鹿児島新報 田原坂激戦之図

西南戦争の激戦地であった田原坂の戦いを描いた錦絵。戦いは3月4日から17日間におよんだ。

九州七県及山口県巡回記略

佐野常民の視察記録で、明治29年10月31日から同年12月12日までを記す。
佐賀滞在時、病院関係だけでなく、織物工場や鉄工工場なども訪問。市内の小・中学校を訪れた際は、演説を行っている。