三重津海軍所跡

近代造船はここから始まった

技術集結の地、佐賀。

歴史的背景と幕末佐賀藩の取り組み

三重津海軍所跡の概要

ドライドックの特徴・運用方法

子ども向け学習シート

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三重津海軍所跡の概要

三重津海軍所跡の概要
三重津海軍所は早津江川の上流側から下流側に向かって整備・拡張され、わずか3年ほどの短期間で洋式海軍の拠点施設として整えられていきました。整備された順に、船屋地区、稽古場地区、修覆場地区の3つの地区に分けることができます。洋式海軍の訓練や学習の場、洋式船の修理や建造のための施設、それをまとめる役所など、さまざまな施設で構成された複合的な海軍施設が三重津海軍所でした。

船屋地区

三重津海軍所のはじまりの場所
三重津海軍所ができる前から、佐賀藩の和船を管理する船屋があった場所です。安政5年(1858)に三重津海軍所の前身となる御船手稽古所が設置されました。ここでは、和船とは動かし方や船の仕組みが違う洋式船を操縦するため、藩内の船手(水夫)を対象とした教育が行われていました。当時から和船の停泊に用いられた入江は、現在も漁港として利用されています。
船屋地区では、三重津が海軍所として整備される以前(船屋期)の遺構と、海軍所稼働期の遺構が検出されており、海軍所稼働期の遺構としては、礎石※や井戸等が検出されています。

※礎石(そせき):建物の柱を受ける土台石。

稽古場地区

海軍教育や訓練を行った場所
安政6年(1859)の長崎海軍伝習所の閉鎖に伴い、海軍稽古場が設置された場所です。長崎海軍伝習所で学んだ伝習生が教官となり、船で海を渡るための知識(航海術や測量術)、機械を動かす力をつくる機関(エンジン)、洋式船の船づくりなどについて学ぶ海軍教育や洋式船の操縦訓練、銃をうつ砲術訓練が行われました。訓練には多い時で、300人を超える人たちが参加したといわれています。
稽古場地区からは、竹柵状の遺構や井戸、「海」の文字が書かれた磁器等が出土しています。

修覆場地区

洋式船の修理などを行った場所
洋式船の修理を行うための施設である御修覆場(ドライドック)や、修理に必要な部品の加工や製造を行う製作場などがありました。ドライドックでは、佐賀藩の蒸気軍艦 電流丸の船底の銅板を張り替えた記録が残っています。また、ボイラー(蒸気をつくる機械)の組み立ても行いました。
ドライドックは、現存する日本最古のもので、ロープや石炭など、洋式船運用に関係する遺物も見つかりました。製作場では、金属加工に関連する遺構が検出されるとともに鉄や銅の加工を物語る遺物が多数出土しています。

三重津海軍所跡の3つの価値

①佐賀藩が諸外国のアジア進出に危機感を感じ、他藩に先駆け海軍力を強化したことが分かる。
長崎警備を担当していた佐賀藩は西洋の国々から日本を守るため、他藩に先駆けて海の守りを強化することを決めました。このために、鉄製の大砲づくりに取り組み、洋式船を導入するため、洋式海軍拠点施設である三重津海軍所を立ち上げました。
②在来技術と西洋技術を融合させた近代化の様子が分かる。
三重津海軍所では、ボイラーの組み立てや船底の銅板張替、日本初の実用蒸気船 凌風丸の建造など、西洋技術に基づく積極的な取り組みが行われました。
それらは、単なる西洋技術の導入ではなく、日本の在来技術を巧みに活用した、試行錯誤の取り組みとして成し遂げられました。
例えば、ドライドックの構築において、強度を高めるために在来の土木技術が採られたり、船を修理するために必要な部品をつくっていた製作場では、日本在来の金属加工技術が用いられたりしていました。
③環境の特徴を活かした知恵や工夫が分かる。
三重津が佐賀藩の洋式海軍の拠点に選ばれたのは、佐賀城下との距離、長崎へ向かう効率性、大型の洋式船が通行しやすい河川沿いである立地など、地理的要素を考慮した結果であると考えられています。
また、有明海特有の著しい干満差を活かしたドライドックへの洋式船の出し入れなど、三重津海軍所跡は有明海や早津江川における自然環境や地理的環境の特徴を活かした、先人たちの知恵や工夫を知る手がかりとなっています。
③環境の特徴を活かした知恵や工夫を伝える遺跡。
▲満潮時の様子
③環境の特徴を活かした知恵や工夫を伝える遺跡。
▲干潮時の様子

※三重津海軍所跡「船屋地区」の入江で撮影。

関連人物

鍋島直正
鍋島なべしま直正なおまさ
文化11年(1814)-明治4年(1871)

名君と呼ばれた佐賀藩第10代藩主。天保元年(1830)に家督を相続し、藩政改革に取り組む一方、藩校弘道館を拡張して人材育成にも力を注ぎ、幕末・明治に活躍する優秀な人材を輩出しました。また、長崎警備強化のため、築地反射炉の建設、精煉方の設置、多布施反射炉の建設、三重津海軍所の創設など、全国に先駆けて近代化産業の発展に取り組みました。

「鍋島直正公肖像(安政6年)」(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

佐野常民
佐野さの常民つねたみ
文政5年(1822)-明治35年(1902)

嘉永4年(1851)、京都で中村奇輔(蘭学・化学)、田中久重・儀右衛門父子(機械・発明)、石黒寛次(蘭学・理化学)と出会い、佐賀に招くことに成功しました。精煉方では大砲や蒸気機関等、科学技術の研究を統率しました。また、長崎での海軍伝習にも参加、技術や知識を習得し、三重津海軍所の創設にも関わりました。慶応3年(1867)にはパリ万国博覧会に参加。明治10年(1877)に博愛社を創立、のちに日本赤十字社と改称し初代社長となりました。

「佐野常民肖像」(佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館蔵)

田中久重
田中たなか久重ひさしげ
寛政11年(1799)-明治14年(1881)

久留米でべっこう細工師の長男として生まれ、巧妙なからくり人形を製作したこと等から『からくり儀右衛門』と呼ばれていました。嘉永5年(1852)に設置された精煉方では、様々な研究に携わり、ボイラーの組み立て、蒸気車・蒸気船の雛形の制作を行いました。また、慶応元年(1865)に完成した日本初の実用蒸気船 凌風丸の建造にも関わっています。
明治6年(1873)、東京で電信機の製造を始め、これが芝浦製作所へと発展し、のちの東芝の基となりました。

「田中久重夫婦肖像」(久留米市教育委員会所蔵) ※田中久重は写真右。

佐田中儀右衛門
田中たなか儀右衛門ぎえもん
文化13年(1816)-元治元年(1864)

田中久重の養嗣子。父 久重とともに、佐賀藩精煉方での研究・開発に従事しました。元治元年(1864)、久重が久留米藩に召しかかえられると、儀右衛門が佐賀藩の専任となり、藩主鍋島直正に重用されるようになります。しかし、同年、不幸にも乱心した佐賀藩士から長崎で殺害されました。

「田中儀右衛門肖像」(「佐賀藩海軍史」より)

石黒寛次
石黒いしぐろ寛次かんじ
文政7年(1824)-明治19年(1886)

丹後田辺藩出身。佐野常民の招きで田中久重父子らとともに、佐賀藩精煉方での研究に従事しました。語学や理化学に長けており、精煉方では主に蘭書の翻訳を担いました。また佐野とともに、長崎での海軍伝習に参加して知識や技術の習得に努め、精煉方での理化学研究に大いに寄与しました。文久元年(1861)には、幕府の遣欧使節としてヨーロッパに渡っています。

「石黒寛次肖像」(「佐賀藩海軍史」より)